達郎氏による曲の解説部分を書き起こして記載しています(一部要約あり)。
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1. SPACE CRUSH / 山下達郎 "イッツ・ア・ポッピン・タイム" '78
2. サマー・コネクション / 大貫妙子 '77
3. 恋は流星 (SINGLE VERSION) / 吉田美奈子 '77
4. ドリーム・オブ・ユー (ALBUM VERSION) / 竹内まりや "ユニヴァーシティ・ストリート" '79
5. LOVE CELEBRATION / LINDA CARRIERE 未発表 '77
6. YO-YO (LIVE) / ルネ・シマール "ファースト・ライブ・アルバム" '77
7. CIRCUS TOWN (LIVE) / 山下達郎 "イッツ・ア・ポッピン・タイム" '78
先週、村上ポンタさんの追悼特集をいたしました。
『極私的 村上ポンタ秀一 追悼特集』
1週間じゃ足りなかったので、2週目に突入しましたが、今日は先週とは違って、わりとレコーディングのものを中心にお聴きいただきたいと思います。
私がかかわっていた1970年代の音源がほとんどであります。
実際に自分が現場にいたもの。
それから関係各位のレコーディング。
で、あっという間に55分埋まってしまいますので、77年から79年くらいまでの、私がシュガーベイブやめてから、「ライド・オン・タイム」でブレイクする直前までの、ポンタさんと一緒にやった仕事。
それから、その周辺の仕事、そんなようなものを拾って、今週も55分間お楽しみいただきたいと思います。
なにしろ、曲が長いので。
なかなか全部かけられないのが、アレですけども。
駆け足で、ですけれども、少しでもですね、お伝えできればと思います。
日曜日の午後のひと時、本日も村上ポンタさんのすばらしいドラミングでお楽しみを頂きたいと思います。
『極私的 村上ポンタ秀一 追悼特集 Part 2』でございます。
先週はライブバージョンを多くお聴き頂きましたが、私の1978年のライブアルバム「IT'S A POPPIN'TIME 」の一曲目は、実はスタジオレコーディングでございます。
風変わりな曲ですけれども、こういうパターンミュージックは、その当時のリズムセクション、
村上ポンタ秀一ドラム、岡沢章ベース、松木恒秀ギター、坂本龍一キーボード、
このキャラクターがよく出てる演奏になっております。
当時16トラックのアナログ・テープでしたので、一人多重録音が大変で、今みたいに、プロ・ツールスで何十トラックもできる時代ではないので。
一回、マルチトラックにミックスダウンしまして、リズム隊を。
空いた14チャンネルに、一人多重の録音をして、どんどん重ねていって作ったという。
当時のノウハウで作った苦心の一曲でございます(笑)
SPACE CRUSH / 山下達郎
まずは大貫妙子さんの1977年、セカンドアルバム「SUNSHOWER」の先行シングルでございます。
アルバムとはちがうメンバーでやっております。
いわゆるシングルバージョンでございます。
僕は、こっちの方が、アルバムバージョンよりも全然好きなので、こっちを、今日はまずお聴きいただきました。
私の大好きなバージョンです。
村上ポンタさんのドラム、田中章弘さんのベース、キーボードは坂本龍一さん。編曲しておりますので、ご自分で弾いております。
ギターが松木恒秀さんと鈴木茂さん、この二人でございます。
さきほどのスペースクラッシュの抑制的なドラムとは打って変わりまして、はっちゃけてる。古い表現でございます。
サマー・コネクション / 大貫妙子
文春オンラインの影響か、今日、圧倒的にいただきましたのは、吉田美奈子さんの「恋は流星」。
1977年のアルバム「TWILIGHT ZONE」からのシングルカットですが、アルバムとは全然違う別テイクであります。
A面、B面とも別テイク、別バージョンでございます。
結構レアなので、今日は、こっちの方をおかけしたいと思います。
村上ポンタさんドラム。ベースは高水健司さん、大仏さんです。ギターが松木恒秀さんと大村憲司さんの2ギター。
吉田美奈子さん、自分でキーボードを弾きます。
村上ポンタさんのダブル・ドラム。ドラムを2回ダビングしてダイナミックを上げているという。
編曲は、恥ずかしながら私。
しかし、スネアのチューニングがすごい。
恋は流星 (SINGLE VERSION) / 吉田美奈子
この時代、私、ポンタさんとレコーディングやった中でですね、気に入ってるバージョンがありまして。
竹内まりやさんのセカンドアルバム「UNIVERSITY STREET」
もともとはシングルで出ました「ドリーム・オブ・ユー~レモンライムの青い風~」ですが、これのアルバム・バージョンを作ってくれという依頼を受けまして。
それで集まったメンバーはですね、ポンタさんのドラムで、岡沢さんが他の仕事でこれなかったので、小原礼さんが来ましてですね。
ポンタさん、小原礼さん、それから松木さんのギター。そいで佐藤博さんのキーボードという、これも意外と珍しいんです。
でも小原さんのベースが大正解でありました。
とってもいいテイクがとれました。
1979年の竹内まりやさんのアルバム「UNIVERSITY STREET」に入っております「ドリーム・オブ・ユー」のアルバム・バージョン。
ドリーム・オブ・ユー (ALBUM VERSION) / 竹内まりや
これは、結構レアなものなんですが、1977年に、細野晴臣さんがアルファレコードのために、アメリカの女性を一人プロデュースしまして。
アルバムを出す予定だったんですけども、いろいろな問題がありまして、結局お蔵入りになったまま、いまだに公式では発売されておりません。
プロモーション用のレコードが何枚かあるだけで、めちゃくちゃレアなですね、高値がついております。
細野さん自身はじめ、いろんな人、矢野顕子さんでありますとか、吉田美奈子さん。私も2曲提供しております。
そんな中の一曲で、自分で気に入ってたんで、翌年の78年に「GO AHEAD」のアルバムに自分でセルフカバーをいたしました。
でもセルフカバーもへったくれも、オリジナルが発売されていないので、どうしようもないですけども。
「Love Celebration」という一曲でありまして。
詩を書いたのはジェームス・リーガンというニューヨークタイムスのコラムニストだそうですけども。
のちに私がやる「Love Celebration」の、これはオリジナルバージョンであります。
村上ポンタさんのドラム、高水健司さんのベース、松木恒秀さんのギターで、佐藤博さんのキーボード。
自分の曲なので、編曲は私でございます。
間奏のサックスは村岡健さんだったという記憶があります。
LOVE CELEBRATION / LINDA CARRIERE
ポンタさんは、インストゥルメンタルもたくさんやっておりますので、そういうのもかけようかなと思いましたけど、とにかく時間がない。
例えば松岡直也さんとか、すばらしいテイクあるんですけど。
いわゆるラテン系のやつは、パーカッションがたくさんいますので、ポリリズムになっておりますので。
こうしたポンタさんが一人でですね独壇場でやってるみたいな、そういうのが少ないので。
今日は、歌のバックのものを中心にお届けしますが、どうせだったらレアバージョンをかけようと。
ポンタさんと最初に仕事をしましたのはですね、1974年のことでありまして。
ルネ・シマールという、カナダのケベックの、いわゆるアイドルシンガーです。
フランス語圏のカナダのですね、たいへん人気を博したアイドルシンガーであります。
マネージャーをやってた人が、その後セリーヌ・ディオンのマネージャで、セリーヌ・ディオンの旦那さんにもなります人なので、その後、セリーヌ・ディオンのデュオとかですね、そういうのを発表しましたが。
東京音楽祭でグランプリをとりまして、日本でたいへん人気が出まして。
ライブをやることになりまして、そのライブのコーラス隊で私たちが参加しました。
私と吉田美奈子さんと大貫妙子さんと、それからシュガーベイブのギタリストでありました村松邦男さんの4人でですね、コーラスをやりまして。
バンドのほうは、村上ポンタさんドラムで、岡沢章さんのベース、松木恒秀さんのギターで、バンマスであります深町純さんのキーボードという、そういうラインナップでありまして。
ライブアルバムが出ておりまして、やっておりますのが、オズモンズの「Yo-Yo」のフランス語版という、げに恐ろしき。
でも、我々がコーラスやっておりますから、間奏のコーラスなんかは、完璧です。
1974年の、渋谷公会堂か大阪フェスティバルホールか、クレジットがないんですけども、どっちかです(笑)
YO-YO (LIVE) / ルネ・シマール
47年もたってしまいました。
47年前でもですね、アイドルは変わらないという、そういう感じでございますね。
1974年のライブレコーディング。
ポンタさんの持ち味、よく出てます。
こういう仕事たくさんやって、スタジオたくさんやってですね。
でも、80年くらいから、だんだんだんだん、そういうところから離れていって、好きなロックとラテンとジャズといきますが。
まだ若い、20代の頭ですからね。
僕21ですからね、このとき。
そろそろお時間でございます。
ほんとは、ドラムソロをですね今日は持ってきたんですけども時間がありませんので、また次の機会に(笑)
第三者のレコーディングに出たとか、そういうのをおかけする時間が、余裕がありません。
自分が関係したものだけで2週間でも、パッツンパッツンになってしまいますので。
文春オンラインのインタビューでも申し上げましたけれども、シュガーベイブをやめてからですね「ライド・オン・タイム」でブレークする間の4年近くの間を、このスタジオミュージシャンのメンバーでレコーディングとライブをずっと続けまして。
その間を埋めてもらったんですけど。
なんでポンタさんから離れていったかといいますと、インタビューでも申し上げております通り、スタジオミュージシャンっていう職業はですね、誰でも使えるんです。
ポンタさんを使いたいという人がいればですね、どこでも行けるんです。
逆に言いますと、自分の音を作ったとしても、その人たちがですね、他行ったら、同じことができるんですね。
ですので、そういう意味では、私はバンド上がりなので自分のリズムセクションいいましょうか、自分の編曲といいましょうか、そういうもので自分の独自性というか、個性を出したいっていう。
特にスタジオミュージシャンの人は、スケジュール押さえとかですね、ギャラの問題とか、そのころは、そんなにお金がありませんでしたから、こっちも(笑)
ですので、そういう制約がすごくあったので、そういう人たちじゃなくて、新しい若い、自分ががっぷり四つで一年中やれる、そういうミュージシャンが欲しくてですね。
そうしたアプローチにしようと、思ってたときにですね、青山純と伊藤広規という二人に出会いまして。
この二人で、その後10年以上、一緒にやることができました。
でもその間の、非常に自分としては、修練といいましょうか修行の期間をですね、ああした一流のミュージシャンの、非常に高度なプレイで一緒にできたというのは、ほんとに自分にとってはかけがえのない体験でございます。
特にポンタさんは、先週も申し上げましたけども、分け隔てのない、いろいろな意味でのアドバイスをもらいましたし、最高のドラマーの一人でございました。
たくさんのレコーディングを残しましたから、音は残っておりますので。
歌謡曲から、こうしたバリバリのアバンギャルドなものまでですね、数多い仕事が残っております。
ここから先、こうしたもので偲んでいければなと思っております。
心からご冥福をお祈りしつつ『極私的 村上ポンタ秀一 追悼特集』
2週間にわたってお届けしました。
ご清聴、誠にありがとうございました。
リスナーから『とあるテレビ番組で、ポンタさんが演奏前にいつもドラムを蹴っ飛ばして、オレの方がお前より偉いんだぞってドラムにわからせてから叩き出すとおっしゃっていましたが、ほんとうに、そんなことしてたんですか?』
盛ってるんです。
でも、ときどきはやってます。
今日の最後は、78年の私のライブアルバム「IT'S A POPPIN’TIME」のラストの曲でございます。
CIRCUS TOWN (LIVE) / 山下達郎
生きてる我々は旅立った方々の分まで一所懸命生きなければならないと思います。
特にこういう時代でございますので。自分の身は自分で守ると言いましょうか。
そうしたものは本当に問われる時代でございます。
心引き締めていってみたいと思います。
でもあくまで明るく前向きに。
<了>