おとのほそみち

行きかふ歌も又旅人也



山下達郎サンデーソングブック 4月7日「ザ・キング・トーンズ特集 Part 2」書き起こし

 

YouTubeに音源があるものは張っていますが、オンエアされた音源とは異なる場合があります

 

キングトーンズのリードボーカル内田正人さんがお亡くなりになりましたので「内田正人さん追悼キングトーンズ特集」、先週からお届けしております。今週は2週目でパート2。
先週は、いろいろと御託を申し上げましたけれども、今週は、あまりそういうことはなく、曲の方をお聴き頂きたいと思います。
68年にデビューしまして、60年代を過ぎて70年代の中期から、今日はスタートしてみたいと思います。

年度変わりですので、アタマに1曲。
この番組、最初に始まったときにかけた曲で、先週申し上げましたみたいに、もともとはキングトーンズに提供するつもりで書いたんですけども、企画がボツになってしまったのでシュガーベイブのレパートリーになりました。
シングルカットもされています。今やシュガーベイブの代表曲であります。山下達郎のオリジナルです。「DOWN TOWN」。

シュガー・ベイブ/DOWN TOWN (音源なし)

 

先週は、1970年代中期まで、ポリドール時代をお聴き頂きましたが、今週はポリドールを離れまして、いろいろなレコード会社に移籍します、その70年代中期以後のヒストリーを、曲をお聴き頂きながら申し上げたいと思います。
先週は、いろいろと突っ込んだ私の考えをお聴き頂きましたけれど、今週は曲中心にお聴き頂ければと思います。
と、申しますのも先週申し上げましたみたいに、特集のタイミングが何十年か遅すぎたと。
関係者の方々で物故された方が、たいへん多くいらっしゃいます。そういう方々のお話を伺えれば、もっともっと突っ込んだ感じで面白い話が伺えたと思うんですけど。残念ながら…

1976年に東芝に移籍をします。そこでの第一弾シングルが宇崎竜童さんのペンによる曲です。「一度だけのディスコ」。


作詞:島武実さん、作曲:宇崎竜童さん、編曲:萩田光雄さん、というコンビの作品ですけれども、いまだに未CD化です。

先日、宇崎竜童さんのところに伺って、この曲のエピソードをいろいろと伺って参りました。
とっても面白い話が、たくさんありまして。
実は、宇崎さん、それより前に、キングトーンズに一回曲を書いたことがあるんですけども、結局、使われないで終わってしまったそうなんです。
キングトーンズに書いた曲なんで、裏声を使ったり、そうした作曲技法で書いたんですけども、結局、使われなかったので、大ヒットシングル「スモーキン・ブギ」のB面に収録したそうです。
「続 脱・どん底」のアルバムに入っております「恋のかけら」。
これが、もともとはキングトーンズに提供した曲なんだそうです。
みなさん、いろいろなことやってるんですね、やっぱり(笑)
宇崎さんは作曲家でいらっしゃいますので。

この「一度だけのディスコ」という作品は、当時のキングトーンズの所属事務所でありました小澤音楽事務所、ここの創設者であります小澤惇さんが、当時のダウンタウン・ブギウギ・バンドのディレクターだった平形忠司さんという東芝のディレクターの方に依頼して、宇崎さんに曲を発注したんだそうです。
ちょうど打ち合わせの時に、近くにいたのが作詞家の島武実さんだったので、じゃあこれは奥さんの阿木燿子さんじゃなくて島武実さんに頼もうと。
キングトーンズには、こっちが合ってるんじゃないかと、そういうようなことで、このラインナップでのレコーディングになったそうです。
プロデュースしておりますのが、渋谷森久さんという、この方、東芝の大プロデューサーで、越路吹雪さん、加山雄三さん、クレイジーキャッツ…
やめたあとも劇団四季からディズニーランドから本田美奈子さんまで、昭和史を彩る大プロデューサーですが、この方のディレクションでレコーディングが進められたそうです。
歌入れに立ち会っても、内田さんは基本的にはディレクター、A&Rの指示通りに歌うという。やっぱり、60年代の日本の歌謡シーンを生きてきた方の制作態度だったということを伺いました。
こうした1曲の中にも、いろんなヒストリーが入ってるという、たいへんにためになる宇崎さん(の話)でした。
何年かぶりにお目にかかりましたが、ほんとにお元気で何よりでございます。

スポンサーリンク

 

 

この「一度だけのディスコ」のシングルの発売の後に、アルバムが発売されることになりますが、このアルバムに私が曲を書き下ろすことになります。1978年のことです。
この当時、私はCMをずいぶん作っておりまして、小澤音楽事務所の子会社の方に、ずいぶんCMの発注をいただきました。
そんな関係で、あるとき音楽出版社にちょっと行きましたら、その小澤音楽事務所の出版社のスタッフの方が「ああ山下君、探してたんだ。今度、キングトーンズのアルバム作るんで、曲書いてほしいんだ」と。
それで、詩がもうできてるっていうんですね。コンセプトアルバムでして。
詩を3曲渡されまして、そのうちの2曲が日本語詩で吉岡治さん。もう演歌の大御所です。「大阪しぐれ」とか。
もう1曲、当時YMO関係にたくさん詩を提供しておりましたクリス・モズデルさんの詩がありまして。
だけど私、その頃はわりと曲書きのスランプの時期でして(笑)
なかなかできずに、ウンウンうなって、やっと3曲書いてお渡ししました。
アルバムのアレンジは梅垣達志さんがなさっておりますので、私はレコーディングには一切かかわってないんですけど。
で、78年、作ってたアルバムで曲が出来なかったので、じゃあ、せっかく書いた曲を使おうと。
そう思いましたら、ディレクターが「これはいい曲だからシングル切ろう」と。私が生まれて初めてシングルカットしたのが、お馴染みの「Let's Dance Baby」。
これは、もともとキングトーンズのこのアルバムのために提供した曲です。


キングトーンズ、78年のアルバム「レザレクト」。ここから「Let's Dance Baby」でした。

このアルバムには3曲入っておりますけれど、もう1曲。
これはクリス・モズデルの英詞に曲をつけたものなんですけれども、やっぱり内田さんが歌う以上、当時のいわゆるスイートソウル路線で1曲書いてみようと思いました。
これすごく自分で気に入ったので(笑)
その次の1979年のアルバム「ムーングロウ」でセルフカバーしてしまいました。
これも山下達郎のリスナーにはお馴染みでございます。「タッチ・ミー・ライトリー」

思った通りの出来上がりになって(笑)すごいな~て思いました(笑)

スポンサーリンク

 

 

お葉書がきて「この『レザレクト』のベースがすごくいいんだけど誰か」と。
高橋ゲタ夫さんです。上手いっすねぇ…
ドラムは林立夫さんだと思いますけど、ギターは松原君かなあ。松木さんのクレジットもありますけど、松木さんは、もうちょっと手数が少ないので、松原さんかなって感じがしますが。
いずれにしましても、すばらしいプレイとすばらしい歌であります。


でも、東芝時代はヒット曲が出ませんで…
アルバムも、今聴くとね(笑)いいんですけど、これ、進みすぎてるんですよ(笑)ほんとに。40年前ですから。
で、80年にSMSレコードに移籍をしまして、シングルを出します。
これが大瀧詠一さんのプロデュースで、その筋では、非常に話題になりましたけれども、これもまた、進みすぎた1曲です。
Velvetsの「Tonight」を脚色して「Doo-wop! Tonight」というタイトルを付けました。
1980年にシングルカットされました。
しかも、ダイレクト・カッティング。一発録り。モノラル盤という。
大瀧さんらしい、素晴らしい出来です。


 

1980年、SMSレコード移籍第一弾シングル。大瀧詠一さんのプロデュース。
訳詞も大瀧さんですね。1961年のVelvets「Tonight」の翻案で「Doo-wop! Tonight」。
B面が、ずばり Five Satinsの「In The Stii of The Night」をもってきております。
どちらの曲も1981年のアルバム「Doo-Wop STATION」に収録されておりますが、こちらの方はDJでつないでいくノンストップタイトルですので、シングルバージョンでないと味がわかりません。シングルB面です。


日本語版ですが、訳詞してますのは、担当A&Rの井岸さん。キャロルとかフィンガーファイブのA&Rで有名な人です。この方がペンネームで書いた日本語詩だそうです。資料に載っておりました。


SMSで何枚かアルバムを出すんですが、現在のキングトーンズ評価の根幹は、この80年代以後のSMS時代の一連の活動です。
それに深く関わっていらっしゃるのが大瀧詠一さんです。
さきほどの「Doo-wop! Tonight」、この後から、SMSは一年の間に、たくさんシングルを出すことになります。
メンバーの加生スミオさんの作品、そのあとは井上大輔さんの作品。いい曲があるんですけど、今日は時間がなくて(笑)
かけたかったんですけど、時間の都合でかけられません。すいません。

ですけれども、この後、1981年に再び大瀧詠一さんと組むことになります。
これが、その当時の若いリスナーに非常にアピールをしました。
ビートルスの大ヒット曲「ヘイ・ジュード」。作者のポール・マッカートニーは、この曲は「ラストダンスは私に」、ドリフターズのヒットソングですが、これにインスパイアされて作ったと。
コード進行が似ているという。そういうエピソードから、この2曲を同じコード進行でつなげて演奏するという前代未聞のシングルが出ます(笑)
1981年、大瀧詠一さんのプロデュースです。「ラストダンスはヘイ・ジュード」

今聴くと、これ、チャートに入ってるのかなと思いますけれど、入ってないんですよね。そういうものなんです。そういう時代でございます(笑)

スポンサーリンク

 


で、このSMS時代に、アルバムを3枚リリースしております。
独立記念日に、横須賀の米軍キャンプでライブ演奏しましたライブアルバム。
それから大瀧詠一さんの作品を収録しまして、それをDJ形式でノンストップでまとめました「Doo-Wop STATION」というアルバム。
そして1982年には、カセットだけの企画、当時はカセットも大きなシェアを占めていましたので、カセットで出しました「渚の“R&B”」。これはカバーで網羅されました1枚です。
オリジナルメンバーの成田邦彦さんのインタビューを拝見しますと、このアルバムは自分が一番好きかもしれないと。自分達が好きなようにやれた1枚だと。
最初に申し上げましたみたいに、いわゆる歌謡曲フィールドですと、やっぱりシンガーはディレクションの通りにやらなければならない…作曲家、作詞家、そしてディレクター、そうした人の意向が入りますけれども、この「渚の“R&B”」というカセットは、自分達が好きなようにできたと、そういうインタビューが残っております。
事実、たいへんに出来のいい作品で、特に60年代のキャンプで歌ってたと思われる曲は、たいへんのびのびと歌っております。
そんな中の1曲。アメリカのトラッド・ソングです。

ザ・キングトーンズ/スイング・ロウ,スイート・チャリオット (音源なし)

完全なバーバーショップ・スタイルで歌われております。Mills Brothersですね。
ドゥ・ワップはこういうシンギングスタイルはとりません。
米軍キャンプでやっていたスタイルだと思います。

スポンサーリンク

 


というわけで2週間お届けしてまいりましたキングトーンズ特集、内田正人さん追悼特集でございますが、まだまだかけたい曲、たくさんあるんですけど、2週間でも足りないという、そういう感じでございます。

先週も申し上げましたが、いわゆる60年代の保守本流歌謡曲から見ますと、異端ともいうべきですね。
でも美しき異端です。
それが日本のフォーク、ロックのム-ブメントと同じようなインディーズ、保守本流から外れたメカニズムが、だんだん運動論として発展するにつれられて、そうしたキングトーンズの美しき異端性というのが、シンパシー、それまで得なかったキングトーンズへのシンパシーというのが生まれてきたと。もともと、そういうものを持っていたと言えます。
アメリカ文化というのは、昔は本当に比べ物にならないほど遠かった。そういう憧憬が、音楽を志すものにとって重要な要素だった故に、また、圧倒的な情報不足からくる多くの誤解もありました。
今でもあります。

そんな時代に、ロックンロールへの文化的認識が、なまじか正確だったために、いろいろと苦悶された、努力された先輩方、それがキングトーンズという存在でありました。
心から敬意を表しますとともに、内田正人さんに心からご冥福をお祈り申し上げたいと思います。

今日の最後は、我々と同じように、キングトーンズにそうしシンパシーを抱いた方の中の一人で、高野寛さん。
高野寛さんが、キングトーンズにインスパイアされて作った曲が「夢の中で会えるでしょう」という1994年の彼のシングルです。
それを1995年のキングトーンズのアルバム「ソウル・メイツ」で、キングトーンズ自身がカバーをしております。
それを最後にお聴きいただきながら、内田正人さん追悼・キングトーンズ特集、ご清聴ありがとうございました。



<了>

 

キングトーンズ特集Part1の書き起こしはこちら