おとのほそみち

行きかふ歌も又旅人也


山下達郎サンデーソングブック 3月31日「ザ・キング・トーンズ特集 Part 1」書き起こし

※YouTubeに音源があるものは張っていますが、オンエアされた音源とは異なる場合があります

 

キング・トーンズの内田正人さんがお亡くなりになりました。
内田さんの追悼を兼ねまして、ザ・キング・トーンズの特集を、はじめは軽い気持ちで始めようと思ったんですけれども、いろいろと調べれば調べるほど何か深いものが出てきまして。
とにかく特集が遅すぎました。20年前にやっておくべきだった特集です。
ほとんどの関係者が亡くなっておりますし、語るべきことが多すぎます。

いわゆる日本の歌謡曲ではない洋楽志向の...それゆえサブカルチャーの立場を余儀なくされるというか、そういうようなスタイルでありまして。
ですので、そういうことを語りつつやらないと、キング・トーンズの本当の意味の日本での位置というのが、はっきりしません。
いわゆる一般メディアが言うような、ドゥ・ワップだとか「グッド・ナイト・ベイビー」とか、そういうものでは語れない非常に深いものがありまして、ここ2週間ほど資料を集めたり、人に教えを請うたりしていました。
今週、来週、年度超えますけれども、2週間、内田正人さん追悼キング・トーンズ特集をやってみたいと思います。

 

で、年度変わりですので、いつも年度変わりにはこの曲をかけております。

明日の私/竹内まりや

 

内田正人さんは1936年生まれですからロイ・オービソンと同じ年ですね。
遅いデビューで、30過ぎてのレコードデビューです。
もともと1958年に、プラターズに憧れまして5人組のグループを結成しました。
プラターズは女性入りの5人組で、その当時はファイブ・トーンズと名乗っていましたけれども、その後、女性が抜けまして4人組となり、キング・トーンズという名前になりました。
60年代は、主に米軍キャンプをまわって活動していました。
その米軍キャンプまわりの中で、プラターズスタイルのボーカルスタイル、どちらかというとR&B寄りのスタイルでやっていました。
結果、同時代のいわゆる歌謡曲サイドのボーカルグループ、ムード歌謡とかのボーカルグループというのは、それ以前のジャズ、ラテン、シャンソン、タンゴとかの要素が強いんですけども、そういうものとは違うR&Bのテイストを身に着けたグループとして、だんだん業界で知られるようになります。
1960年代の頭には、レコーディングのバックコーラスとして、しばしばクレジットされるようになってきます。
そんな時代の作品から、有名どころを二つほど
まずは藤木孝さん。ミスター・ツイストですね。
藤木孝さんは1961年のテイチクからのシングル「小さい悪魔」、ニール・セダカの「リトル・デビル」で、アレンジが宮川泰さん。

翌年の62年、テイチクから田代みどりさんの、これはポール・ピーターソンのヒットですね。「じらさないでね」のカバー。(オリジナルのタイトルは「She Can't Find Her Keys」)。漣健児さんの訳詞です。
どちらもレコードに「コーラス/キング・トーンズ」というクレジットが入っております。

小さい悪魔/藤木孝
彼氏の気持ちはワークワク/田代みどり

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 このような和製ポップスのところで仕事をするあいだ、また、キャンプまわりを続けておられました。

1960年代の国内のいわゆるドメスティックシーンですが、ロックンロール以前の洋楽ジャンルで、ジャズ、ラテン、シャンソン、タンゴといった、そういう要素がまだまだ強い影響力を持っていました。
大多数のリスナーもまた、既存のそうした歌謡サウンドにシンパシーを持ってた時代です。
レコード会社の音楽制作スタッフはもとより、作曲、編曲、演奏者からレコーディングエンジニアに至るまで、当時最先端だったロックンロールとかR&Bに関する知識・情報は、圧倒的に不足していました。
そこから生じる技術的問題のために、英米と同じような音像をレコードに再現するというのは、まだ相当困難な時代でした。
したがってこうした和製ポップスからグループサウンズに至るまで、当時の我々のようなですね、中高生の洋楽リスナーが下す音楽的評価というものは、あくまで‘近似値’としての洋楽的なテイスト...その割合の大小、要するに洋楽っぽいなっていう‘近似値’で、あくまで本家は洋楽のオリジナルでした。ロックンロール志向の国内音楽ってのは、どこまで行っても近似値’でしかない時代です。今でも、そういう要素は多大にありますが。

そんな60年代でも、すぐれた‘近似値’を提示された方々がたくさんおられます。
例えば加山雄三さん、作曲家では宮川泰さん、編曲もやっておられますけれども。
あとは寺内タケシさんはじめインストゥルメンタルですね。
そのあとの一連のグループサウンズ、たくさんおられます。

そんな中で、1969年にキング・トーンズというボーカルグループの作品がじわじわと日本でヒットし始めます。
それまで聞いたことのない‘近似値’と言いましょうか、米軍キャンプまわりで吸収したアメリカのテイストが、日本の既成の音楽マーケットから隔離された純粋培養の存在としてユニークな作品を生み出したといえます。
はじめ、リリースされた時は、それほどではなかったのですけど、じわじわとヒットしました。68年にリリースされたんですけど、年を越えて69年オリコンの2位まで上がる大ヒットになります。出世作であります。

グッド・ナイト・ベイビー/ザ・キング・トーンズ



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日本グラモフォン、後のポリドール、今のユニバーサル。ここと専属契約したんですけども、邦楽のセクションはどこも手を挙げませんでした。
で、結局洋楽のセクションで制作することになります。このグループの特徴を生かした作詞・作曲をしようとする人が誰も出てこなかったからなんですね。
しょうがないので、当時の洋楽のA&Rだった松村孝司さん、この方「コーヒー・ルンバ」なんかをヒットさせた方ですけれど、この方が「むつひろし」というペンネームで書いたのが「グッド・ナイト・ベイビー」です。
作詞を手掛けた大日方俊子さんも、そうした制作セクションで、この方は「ひろまなみ」というペンネームで作詞しました。
この「むつひろし」「ひろまなみ」というコンビは、のちに和田アキ子さんのヒット曲「どしゃぶりの雨の中で」という作品を書くことになります。それで、ちょっとイメージしていただけると思います。

 

当時、私は高校1年か2年にかけての時代でしたが、洋楽ファンでも、どちらかというと少しマニアックで、あんまりヒット曲に目を向けないんですね(笑)
マニアックな曲が好きな仲間内では、このA面の「グッド・ナイト・ベイビー」よりも、B面の「捨てられた仔犬のように」。これはキング・トーンズのベースシンガーの加生スミオさんが作詞、作曲、そしてアレンジにクレジットされています。
このサウンドがですね、当時の日本のボーカルグループファンにとって、非常にR&B的って言いましょうか「このグループ、すごいよ!」って言っていました。

捨てられた仔犬のように/ザ・キング・トーンズ


 1968年の日本のそうした歌謡スタジオシーンでは、R&Bのトラックを構築することなど、ほぼ不可能でした。
お聴きいただきますと、オリジナルソングであるこのB面の「捨てられた仔犬のように」の方が「グッド・ナイト・ベイビー」よりも、若干メロディーの構造があか抜けてる部分があります。
それでも、ブラスのアレンジなどは、一時代前のビッグバンドの手法でして、あれを例えばメンフィスホーンのように3管でやったらもっと雰囲気が出たのにと。
それは私だってずっと後になってから、そう思ったわけで、当時はただ漠然とした疑問符でしかありませんでした。

いろいろな内田さんご自身のインタビューなんかを拝見しますと、内田さんは当初レコードデビューがいやだったとおっしゃっております。
どんなに洋楽的な志向とか発想を持っていても、当時の状況からは、安易にムード歌謡の方向に持っていかれるってことを、よくご存じだったということですね。
そういう部分で、自分のスタイルが日本ではほんとに理解されないというとを直感してたようにも感じられます。
その後も、プラターズのスタイルに対して、ある種のかたくなさが見え隠れします。
特に歌謡曲には警戒心の強い方だと思いました。
それはとりもなおさずR&Bに対する認識が正確だったので、時代的に日本の歌謡シーンとは折合いの悪い活動を余儀なくされるんじゃないかと、そういうようなことだと思います。

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インタビューの中に「グッド・ナイト・ベイビー」に対するコメントがありまして<あれは難しい曲で「涙こらえて」のメロディーの部分は演歌でしょ。あれを、どうすれば演歌じゃなく歌えるかっていうんで、そこでファルセットが出てきたんだ>と。
そういうメロディーに対する感性みたいなものが、すごく敏感だった。そういう方だと思います。

 

今日と来週のキング・トーンズ特集で、どうしても申し上げなきゃいけないことがあります。
無駄と知りつつ申し上げますけれども、キング・トーンズはドゥ・ワップ・グループじゃありません!
彼らの音楽的原点であるプラターズの全盛期の活動というのは、厳密にはドゥ・ワップ・グループとは定義されていませんでした。
ただ、今はアメリカの文化史も相当アバウトになっちゃったんで、みんな一緒くたにされてしまった結果、そうなりました。
ましてドゥ・ワップはおろか、バーバーショップ、オープンハーモニー、ジュビリースタイル、カルテットスタイル...そうしたコーラススタイルに関する明確な音楽的説明が、今やまったくなされなくなりました。
今の時代の中ですと、キング・トーンズは結果的に近似値としてのドゥ・ワップというカテゴライズでしか日本では選択の余地がなかったので、ドゥ・ワップということになります。
蛇足ですけども、鈴木雅之と山下達郎以前には日本のメディアにドゥ・ワップという単語はありませんでした。ドゥ・ワップ自体が60年代以後の用語で、造語です。
キング・トーンズの皆さんが自分達がドゥ・ワップ・スタイルだと意識したことは、それは後付けです。これだけは、言っとかなきゃなんない。


もう一つ、今Wikipediaとかそういうデータを見ますと、キング・トーンズの「グッド・ナイト・ベイビー」は、アメリカのアトコレーベルから発売され、ビルボードのR&Bチャートで48位をとったという…これは虚報です。
私の知り合いの、そうしたチャートのエキスパート4人に確認をとりましたけれども、全員が否定しました。R&Bチャートに入っておりませんし、全米チャートにも入っておりません。
ただ一つ、キャッシュボックスの1969年5月に最高114位という、このランキングが記録に残る唯一のものです。上柴とおるさんから伺いました。
でも、それは今はもう、ほんとに検証することなしに拡散するんですね。
それで「グッド・ナイト・ベイビー」はビルボードR&Bチャートに入ったんだと...嘘ですので。
だからと言って、彼らのステイタスが傷つくとか、そんなことは全然ありません。実力とは関係ない話なんです。
データは正確にやらないとダメだと。やっぱりネット時代の弊害があります。

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「グッド・ナイト・ベイビー」のヒットがありましたので、ファーストアルバムが69年に発売されまして、セカンドアルバムがすぐ発売されます。
セカンドアルバムには、この方たちのアイドルでありますプラターズのナンバーが何曲か入っています。こちらの方が本来のキング・トーンズのスタイルとして受容できるものです。
2曲続けて、1969年のセカンドアルバム「愛のノクターン」に入っております。

オンリー・ユー/ザ・キング・トーンズ

煙が眼にしみる/ザ・キング・トーンズ


要するに、内田さんは早すぎたんです、少しね…

 

だいぶ理屈っぽいと思われるかもしれませんけれども、正確なキング・トーンズのスタンスというのを、やっぱり誰かが言わなきゃなんないかなと。そういう使命感でやっております(笑)

キング・トーンズのアルバムを聴きますと、そうしたプラターズのカバー、それからオリジナルソングがあるんですけれども、さきほど申し上げましたみたいに、メンバーの加生スミオさんのお作りになる曲が、当時はとってもあか抜けてて、いい曲が多くて、この曲もそんな一曲です。1969年にシングルカットされました。

愛のノクターン/ザ・キング・トーンズ (音源なし)

 


所属していた日本グラモフォン、ポリドールはアトランティックを持っていて、スタックスのR&Bが出てきましたので、このセカンドアルバムは「ドック・オブ・ザ・ベイ」なんか入っております。
そうした、いわゆるR&Bのコンテンポラリーなものに対するアプローチと言いましょうか、この曲の内田さんの歌を聴いておりますと、関西ブルースの例えば...大塚まさじさんとか、ああいうテイストがちょっと見えてきます。
ので、ちょっと先行き過ぎたっていう感じがあります。

キャンプ回りで培ったキャリアから、そうしたR&B的なものに対する認識が非常に正確だった。それが時代的に日本の歌謡シーンとは、なかなか折合いが悪いということがあります。ムード歌謡全盛ですから。
ムード歌謡ってどちらかといえば、ラテンに近いジャンルの人たちが、そっちに行ったので。ロックンロールとはちょっと違う世界なので。やっぱり冒頭にも申し上げましたみたいに、そうした警戒心というものが、おありになる。
でも、レコード会社とか制作スタッフにすれば、そっちの方がヒットを生みやすいと。
そういう典型なんですが、1971年のシングル「暗い港のブルース」。
これは、オリコンチャートで19位という、「グッド・ナイト・ベイビー」に次ぐチャートアクションを見せた曲で、これもキング・トーンズの代表曲として認知されております。これはどちらかというとラテンテイスト、そういう解釈だと思います。今まで私が選曲したやつとはテイストが違う、という感じでお聴きになれると思います。

暗い港のブルース/ザ・キング・トーンズ

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もともと1963年に「グッド・ナイト・ベイビー」のアレンジをしてらっしゃる早川博二さんという方がいらっしゃいまして、この方はトランペット奏者で、自らモダン・プレイボーイズというバンドを作っております。いわゆるジャズ系のバンドです。
そのインストゥルメンタル曲がルーツで、これになかにし礼さんが歌詞をつけて、一回、フランク赤木さんという方が日本グラモフォンからシングルにしたんです。
それをなかにし礼さんが歌詞を全面的に書き直して、キング・トーンズで新たにレコーディングしてヒットしました。このバージョンは、ちあきなおみさんとか藤圭子さんとか、カバーがたくさんあります。

 

お聴きを頂ければわかるように、歌唱力のある方ですので、その気になれば、こうした路線でもかなりの水準まで行ける方です。
でも、内田さんのいろんなところでのインタビューを伺ってる限り、こうしたムード歌謡の路線には行きたくないという、はっきりとした意思がおありだったような感じがします。
日本で果たしてR&Bがやれるのか、ある種の諦観と言いましょうか。
それでも当時は…現在でも、キング・トーンズはムード歌謡コーラスの変形とみてるリスナーの方が非常に多いです。
和製フォー・シーズンズなんていうのは、まだましな方で“甲高い声”というような明後日の形容詞つけたりと。今でもみられます。

自分が、日本のシーンではアウトサイダーだという、そうしたものがプラターズに対するより強い意志、そういうのを生んでいかれたという感じがすごくします。
そういう点でですね、私には痛いほどそこが理解できますし、自分にそういうところがとても似てると(笑)
そういうことを思いましたので、こんな特集の形になってしまいました。
要するに早すぎたんですよね...

 

1974年にキング・トーンズに若い作家が曲を提供して、キャラメルママがバックでアルバムを作ろうという、そういう企画がありました。
そのことについては、私、何度か語って参りました。
その企画に賛同して、伊藤銀次と私と書いた曲が「ダウンタウン」はじめ3曲なんです。
結果、その企画に賛同して曲を書いたのは、私と伊藤銀次と二人だったので(笑)、結局企画が流れてしまいました。
もったいないんで「ダウンタウン」は、自分のシュガーベイブの曲として発表することになったんです。
その企画が始まるというので、キング・トーンズのライブに呼ばれまして、ルイードというキング・トーンズが所属していた事務所、小澤音楽事務所ですね、ここが造ったライブハウスなんですけども。そののち、シャネルズなんかも、そこでやりますが、そこにキング・トーンズを観に行ったんです。
その時にアルバム企画を立案した人たちが、その当時のトレンドの例えばスタイリスティックスみたいなものを歌ったらどうかというようなサジェスチョンをしたそうなんです。
それを内田さんは「あんまり僕は気が乗らないんだ、こういうの」って言って、そういうことをステージで話しながらですね「ユー・アー・エヴリシング」歌ったんですけど、それがもう素晴らしかったんですよね(笑)

その話を大瀧さんにしましたら、とっても興味を示しまして、その後の大瀧さんのキング・トーンズの起用ということになった...その一端にはなってるんじゃないかと思います。
実際、大瀧詠一さんは、男性ボーカルグループをとても欲していたんです。
女性はシンガーズ・スリーに出会いまして、混声はシュガー・ベイブの我々がいましたけれども(笑)
純粋に男性コーラスっていうのは、すべて一時代前のスタイルしかいなかったので。
「ダウンタウン」の逸話を聞いて、キング・トーンズに声をかけて、そこでようやく満足のいくスタイルのグループに出会えて、創作意欲もわいて、それがのちのキング・トーンズのプロデュースへとつながっていくという流れだと思います。

大瀧さんが生きていれば、最高に面白い話ができるんですけども、大瀧さんはなぜかキング・トーンズの話を、僕にはあまり...というかスタッフにあまり細かい話をされなかったんです。なぜかわからないんですけど。
で、1975年に大瀧詠一さんは「ナイアガラ・ムーン」というアルバムでキング・トーンズに依頼しまして、福生のスタジオまで呼んで、彼らのボーカルを録りました。「恋はメレンゲ」のバックコーラスを頼んで。

アカペラで、大瀧さんがリードボーカルで、キング・トーンズをバックに歌うという企画があります。ここから、キング・トーンズが、そこから先により若い聴衆にアピールする可能性が出てくるわけです。
この続きは、また来週、パート2でお聴きいただきたいと思います。
今日の最後は、大瀧詠一さんの1975年のアルバム「ナイアガラ・ムーン」に入っております。
いつも夢中/大滝詠一 (音源なし)

 

来週のPart2は御託を少なく曲を中心に、私が作った「レッツ・ダンス・ベイビー」とか、私達の世代にとってのキング・トーンズについてお話させていただきたいと思います。

(了)

 

特集Part2はこちら

 

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